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2005年08月29日
教育システム情報学会第30回大会
教育システム情報学会第30回大会に参加してきました。金沢学院大学が会場です。私は、2日目の8月26日の17時からのセッションで発表しました。

e-Pedagogy
1日目のワークショップ(実質的にはシンポジウム)は「e-Pedagogy」を選びました。あまり聞かないタームですが、要はe-Learningを教える側から見たということのようです。
銀行が窓口業務からATMへと移行した現象と同じように、対面授業はeラーニングに取って代わられるでしょう。もちろん銀行に窓口がまだ残っているように、全面的な乗り換えではなく、今は補助的な位置づけのeラーニングが中心になり、対面が補助となるということです。
なお、補助的な位置づけのeラーニングでは、対面のコストを下回ることはなく、フルオンラインにして、かつ学生の数が数百人以上になった時に初めてeラーニングが対面のコストを下回るというデータも出されました。示唆的です。
フィンランドの教育の特徴的なところは、共同的な活動の重視と、成績による序列付けをなくす、というところにあります。学習ポートフォリオを作り、それは成績による序列をつけるためのものではなく、自分自身を知るため、つまり、自分はここが足りない、ここをもっと伸ばそうということを認識するためのものです。
西之園先生は、「グループではなくチーム」ということを強調されました。チームには役割分担があり、それが大事というのです。野球チームといいますが、野球グループとはいわないわけで、役割によって分けられた集団であるチームの形態が「学習する組織」に必要な要件だというわけです。
大規模オンラインゲーム
2日目です。台風の影響か、曇り時々雨の天気です。午前中は、ペン・ステートの藤本さんのMMOGの話を聞きました。大規模オンラインゲームの話ですが、教育に示唆するところ大です。革新的なだけに、教育についてもう一度考え直さなくてはなりませんが、そのことが面白いのです。
MMOG(Massive Multiplayer Online Game)とは、場合によっては数万人以上のオンラインの参加者を集めて、仮想空間内で社会的活動を行うゲームです。「A Tale in the Desert」のように、非戦闘的なゲームもあります。ここでは参加者が協力し合って理想の文明を作り上げるというのがゴールになっています。その制約の下にいろいろな課題やイベントが与えられるのです。
教育的な面で重要な点はいくつかあります。まず、自分で計画して、自分でタスクを選んでいくという自律的で非単線型であること。それから、他者との協力が不可欠であること。それによってコミュニティが形成されていき、コミュニティ内でのメンターシップが形成されます。つまり、ゲーム内で、熟達者から新入りへのメンタリングが自然に行われるのです。また、プレイヤーの情報蓄積もされ、wikiやBBS、チャットなどで情報交換と蓄積がされていきます。また、創作活動なども見られるとのことです。
もっとも重要なことは、ここでは「教師がいない」ということです。熟達者はいますが、彼らは教師という役割を与えられているわけではなく、自らそれを買って出るのです。評価は教師によってではなく、参加者同士によってされます。データベースの構築やメンタリング、助言などといった活動によってコミュニティに貢献したという事実が評価されるわけです。
MMOL(Massive Multiplayer Online Learning)というものを夢想してしまいます。
学会の討論の場
現岡本会長(電通大)から、伊藤先生(東京理科大)に会長が代わります。さりげなくですが、シンポジウムの終わりに新機軸を打ち出していました。それは、大会が終わったあとに期間限定で討論の場をオンライン上に設けるというものです。大会でのシンポジウムは、たいていは討論が始まったと思うと間もなく時間切れになってしまうことが大部分のケースですから、これは機能すればすばらしいものになりそうですね。そのためには、自らが討論に参加することが必要ですが。
久しぶりの発表
今回は久しぶりに発表をしたのです。最後にこの学会で発表したのは、2000年の最後の連合大会でした。連合大会というのは、教育工学会、教育システム情報学会、教育メディア学会が3年に1回、合同で大会を開くという制度によるものです。この制度は2000年を最後に解消されています。連合大会での発表を除くと、1996年が最後の発表でした。ということは、約十年ぶりの発表であったわけです。
発表論文:Batesonの「学習2」を教育工学の中に位置づけ、解釈する
これに対して、いただいた質問は、「学習者の方から見て、学習1をやっているとしか思えないんだけれども、実は学習2をしていたというような設定(システム)は可能か?」というハードなものでした。学習の「見え」を問題にしているのです。私たちの体験でも、「あのときは何でこんなことしているんだろうと思っていたけれども、今振り返ってみるとあれはちゃんと意味があったんだよな」ということがあります。
いずれにしても、学習1を抜きにして学習2は成立しません(加速度だけがあって速度がないのはおかしいですから)。学習1を「学習1」だったんだなと再認識できるようになること、つまり自分の認識の変化ですが、これが学習2の証拠になると考えています。それをベースにした評価論ができるかどうかを検討しています。
投稿者 kogo : 21:51 | コメント (1) | トラックバック
2005年08月26日
学会発表:Batesonの「学習2」を教育工学の中に位置づけ、解釈する
日本教育情報システム学会第30回全国大会(金沢学院大学)で発表したものです。引用の際は、向後千春(2005)Batesonの「学習2」を教育工学の中に位置づけ、解釈する 『教育システム情報学会30周年記念全国大会講演論文集』Pp.335-336 としてください。
あらまし
Batesonは、人間の学習について、「ゼロ学習」から「学習3」までを区別した。ゼロ学習は一回限りの反応、学習1は刺激・反応・フィードバックの繰り返しによる行動パターンの獲得で、通常私たちがいう学習に相当する。学習2は、学習1のメタレベルの行動であり、学習について学習するということである。これらの学習の区別を教育工学の文脈の中で整理した。
キーワード:学習、Bateson、文脈、学び方の学習
1. 問題
Bateson(1972)は、人間の学習について、ゼロ学習、学習1、学習2、学習3を区別した。ゼロ学習は一回限りの反応、学習1(proto-learning, 原学習)は刺激・反応・フィードバックの繰り返しによる行動パターンの獲得で、通常私たちがいう学習に相当する。学習2(deutero-learning, 第二次学習)は、学習1のメタレベルの行動であり、学習について学習する(learning to learn)ということである。これらの学習の区別、とりわけ学習2は、同一文脈の中での学習を扱い、それをいかに効果的、効率的に実現するかということを目標にしてきた教育工学にとって新しい考え方を迫るものとしてとらえることができる。なお、学習3については本報告では扱わない。
人が学んだことを実践する現場では、通常学んだことがそのまま適用できるケースはほとんどない。常に複雑な条件が入り交じった状況の中で、意思決定を迫られる。また、意思決定をし、問題解決をしていく途中の過程で新しい何かを学んでいく。こうした中では、「何かを学ぶこと」それ自体が重要なのではなくて、「どんなときにどんな学び方をすればよいのかということを学ぶこと」というメタレベルの学習が決定的に重要になってくる。
つまり「学び方を学ぶ」ということだが、これは簡単ではない。Batesonは、これを学習2と名づけた。学習2を起こすためには、経験の流れに区切りを入れていく力、つまり文脈を意味あるものとして分節化していく方法を身につける必要がある。しかし、学習1の成果として学習の方法が効率化し、その意味ではいいことだが、同時に学習の方法は固定化し、そこから抜け出すことが難しくなる。その結果として学習2が起こりにくくなる。大学受験のために効率化された勉強法を続けてきた学生が、大学入学後にその固定化された学習方法について、一度捨て去らなければならないのはこの一例といっていいだろう。
本報告では、Batesonの提示した、ゼロ学習、学習1、学習2についてのアイデアを教育工学の文脈の中で整理し、なんらかの方向性を示唆したい。

2. ゼロ学習、学習1、学習2
Batesonは、ゼロ学習、学習1、学習2を物体の運動になぞらえて説明している。ゼロ学習は、静止状態である。学習1は一定速度での運動、学習2は加速度運動である。
実験室の中で、単純な反復学習をしたときに得られる、右上がりの学習直線は学習1に相当する。同様の反復学習をもう一度実施すると、今度は、上達が速くなり、学習曲線の立ち上がりは前回よりも鋭くなる。これが学習2である。ここでは、単純な反復学習以上のものが学習された。何が学習されたのだろうか。学習者は、この学習の文脈が前回のものと同じであるという認知をした。そして、その結果として、より効率的な学習方法を学習したのである。つまり、複数の文脈を比較し、文脈にあった学習法を選択することを学習した。
Bateson(1979)は、イルカの調教の例を出して、別の学習2を例示している。あるセッションで特定の動作を強化し学習させる。休憩を挟み、次のセッションに入ると、今度は前に強化された動作には一切報酬は与えられず強化されない。このイルカは前回強化された動作を次もやってみるという不毛な繰り返しを14回続けたという。しかし、15回目になって8つの演技をやり、そのうち4つは今まで観察されたことのない演技であった。ここで、イルカは自分に新しい動作が求められているのだという文脈を学習したのである。つまり、複数の文脈を比較することで得られた情報を使うことを学習した。
3. 行動主義、認知主義、状況主義
行動主義においては、文脈は限定され、固定されたものとして、その中での学習を扱ってきた。したがってそこで観察されたのは学習1である。また、行動主義のラインに乗ったCAIやプログラム学習が、学習1を指向しているのは当然のことといえる。
認知心理学は「転移」に注目しているように、学習2を視野に入れている。しかし、それは特定のスキルや知識を別の文脈で利用しようとするものであり、スキルと知識を中心に考えている。
その反対に、状況主義では、すでにある複雑な現場の文脈を目の前にして、それを解読する作業が求められる。つまり、まず現場があり、その文脈が存在するという意味で文脈を中心に考えている。
認知主義と状況主義はちょうど図と地を入れ替えたような関係ではある。いずれの場合も立場は逆でありながら、学習2を指向している。しかし、十分ではない。
4. 教え方は学習者の世界観を作る
学校のクラスによる一斉授業のやり方に慣れた学習者にとって、個別に自己ペースで学習を進めていくPSI(個別化教授システム)方式は十分に新奇な学習方法である。
先生がしゃべり、生徒全員がそれを聞き、ベルが鳴ると終了するという枠組みの教え方は、パブロフ的で受動的な世界観を学習者に与えるだろう。一方、自分が教材にチャレンジしないことには何も起こらないPSI方式では、むしろスキナー的で道具的な世界観を与えるだろう。
どんな教え方を採用しても、その教え方が学習者によって強化される限り、その教え方は「自己固め(self-validate)」される。逆にいえば、今日まで生き残ってきた教え方には、何らかの形でその教え方を強化するような形で、教授者・学習者のコミュニケーションが行われてきたと考えられる。しかし、どんな教授方法も特定の一部の学習者にマッチし、それを強化することから、逆にその教授方法はその特定の学習者によって強化される。これによってどんな教授方法も自己固めのサイクルに入り、その方法が生き延びてきた。教育工学は教授・学習過程を自己固めによってではなく、外からの視点で評価しようとしているし、それがなくてはシステム的なアプローチとは呼べない。
5. 学習2を促進するインストラクション
学習2を促進するインストラクションについて考えよう。教育工学的な学習2とは、学習の文脈の認知、分節化、解読であった。たとえば、「正解は1つだけある」という学習文脈から、「正解はない」あるいは「正解はたくさんある」という文脈に飛び移るためには、強化された行動をあえて忘れることを学習したイルカのように振る舞わなければならない。こうした意味で学習文脈をどのように変化させるかということで学習2が促進されることが期待できる。
ケーススタディは、それが現実の問題を取り上げているということと、あらかじめ決まった正解がない(より良い評価や価値が得られればそれが結果として正解である)という意味において、教材というものの文脈を変えている。その結果として学習2を促進するだろう。
学習者同士の討論やピアチュータリングは、教師と学習者の関係という文脈から逸脱し、学習活動そのものの文脈を変えている。本来学ぶ人が、教えなくてはならない立場に立たされたときに、学習に必要なリソースはまったく違った様相を見せる。
学習活動そのものについて内省すること、たとえば「今日習ったことはいったいどんな意味があるんだ?」と考えることは、教室の中で行われた活動を、社会や自分の生活の文脈の中に置き直してみるという意味で学習2を促進するだろう。

5. 教育というダブルバインド
教育は、「この通りにやればあなたはできるようになるでしょう。でもそれは難しいけどね」というダブルバインド的メッセージを常に送っている。簡単にできることなら教育は不要だし、できるようにならなければ教育は失敗している。したがってその定式化は困難であり、それを可能にするためには一段メタなところからその活動を眺める必要がある。
引用文献
- Bateson, G. 1972 Steps to an Ecology of Mind.(佐藤良明訳『精神の生態学』新思索社, 2000)
- Bateson, G. 1979 Mind and Nature.(佐藤良明訳『精神と自然』新思索社, 2001)